三代続いた「東京屋」も私が四代目です。
家業の釣具店を継がず、IT企業の会社員となりました。
今回の大震災で店舗や工場も流失し、高齢の父は再建する意志はありません。

このまま、何もしなければ、そのまま東京屋の屋号も風化するだけです。
そこで当ブログに東京屋のことなど掲載します。

さて、岩手にあるのに東京屋という屋号にしたのは何故でしょうか。
父(三代目)から聞いた話を元に、その歴史を紹介したいと思います。

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初代は、福井県の生まれで、三男だった。
家は地主とかで、長男が継ぐことになっており、次男と三男は継承権がなかった。
そこで、次男と三男は意を決して北海道へ渡ろうとしたらしい。

当時、北海道開拓(屯田兵)の時代。そこを目指していたのではないか。


しかし、その旅の途中・・・・
次男と三男は何らかの事情で北海道行きを断念。兄弟で「次にこのわらじが切れたところで終わりにしよう」
ということにしたらしい。



次男は、現釜石市でわらじが切れ、我がご先祖の三男は、次男と別れ北上を続けた結果、現山田町でわらじが切れた
そのまま山田町に永住することにした・・・
とのこと。


※ここで疑問!福井から北海道を目指すのに、何故に太平洋沿岸の三陸に廻ったのか。遠回りではないか?



初代は、地元の娘と結婚し婿入り(ここで姓が変わったのだとか)
その後、商売を始めるにあたり、屋号を決めなければならない。
屋号は、自分のあだ名であった「東京さん」から「東京屋」にしたのだとか。


当初、山田町の地元の人と言葉遣いが違った。
福井の人でしたから、訛りも違う、イントネーションも違う、表現も違ったと「う」時期が明治初期(江戸が東京へ変わった)だったので、みな東京から人だ、東京から人だと言って、東京さんになったのだそうです。

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※ここで疑問!福井は関西弁色が強い地域なはずで、東京から来たとは思わないんじゃないかな?



これは私の憶測ですが・・・・
福井から、東京を経由して北上したのかな?折角だから東京をみて、海沿いを旅してみようなんて?
そして山田町に住み着く時に友達やら近所の人に東京はこんな所だったなんて話していたとか。

真相はわかりません(>_<)


山田の家には先祖代々の写真(初代は肖像画)が額に飾られていました。
初代は、ごっつい人です。体は当時としては大きかったそうです。
その肖像画も流されたか埋もれたか、どこにいったかわかりません。