また、懲りずに当時のことを思いつくままに書いてみます。

前編「ふと思い出す~震災当日のこと
3/11 21:00を過ぎていたでしょうか。盛岡まで戻ってきました。
家では、反射式のストーブで暖をとり、結婚式でもらったデカイろうそくを明かりにしていました。

反射式ストーブ、便利なものだなぁ。このとき思いました。
暖かいです。
お湯をわかしています。
網でモチを焼いてもらいました。そういえば何も食べてなかった。腹減ってた。

我が家はエコキュートだったので、電気がないとお湯がでません
IHクッキングヒーターなので煮炊きもできません
これらの代役を反射式ストーブがやってくれてました。

カセットコンロがあれば、もっとよかったなぁ~

ろうそく・・こちらは、危なかったです。
余震でグラグラ揺れるたびに、火を消しました。
強い揺れが続いていたので、倒れたら火事になっちゃうので・・・・

地震速報→ゆれる→デカイ→火を消す

火を消すとき、息をかけて消すと溶けたロウが飛んで、火も一緒に飛んでいったことがありました
あぶね!!あわてて消しました。
すぐに消えましたが、ヒヤっとしました。


情報源は電池式ラジオ、これだけでした。聞いていたのはIBC。
父と兄の安否はわかりませんし、山田町がどうなっているのかもわかりません。
この状態がいつまで続くのかわかりません。あいかわらずグラグラ揺れます。燃料節約のためにもとりあえず布団に入ることに・・・・
いつでも逃げれるようにと服を着たままで布団をかぶりました


翌朝早朝、神子田の朝市やっているんじゃないか?ということで食料を求めに
開いていましたよ朝市。お総菜屋さんには、「ごはん」売ってました。かなり並んだけど。
朝市強し! とても助かりました。


朝食後、近所のスーパーに・・・
我が家の備蓄食糧は、市販のおもちだけだったので、ちょっと心細い。
開きそうかどうか様子を見てこいとの指令で、一番近い「いわて生協」へ

スーパーの中に人影が・・・店員さんが集まってミーティングしています。
開けてくれるんだ。
わかったとたんに行列ができました。

1時間程待ち、スーパーから説明が・・・
順番に10組ずつ店に入る。所要時間は15分。1組10点まで。店員がついてまわるので、欲しいものを店員に指示すること。だったかと思います。

停電中で、証明もつかずレジも動かない。そんな中、お店を開けてくれるのは非常に助かります。
ちょっとだけでも食料を買える買えないでは雲泥の差です。

しかし、残念なことも・・・
お店の責任者の方が説明している時、列後方から「きこえねーぞ」という声が・・・
列の前方からは、「うるせー!黙ってろー!」
罵声の応酬です。みんなピリピリしているのだろうけど。これ醜くないですかねー。
それより、今沿岸ではとてんでもない状況になってしまって、みんな必死でこらえているのに・・・・
ものすごく嫌な気分で、ものすごく腹立たしかったです。

なんとか食料を確保し、家に帰りまして・・・・
さて、山田に捜索に行かなければ、と思うわけですがガソリンがない。すでに一往復してきてますから残量が波分をきってます。停電しているのでガソリンスタンドも開いてません。自家発電もってたりしないかな。そんな淡い期待を持ちつつ、近辺のスタンドを数カ所見て歩きましたが・・・やはりダメでした。

結局、公衆電話に行き災害伝言ダイヤルへの録音と、応答がないか再生してみる。それを数時間おきに繰り返しました。しかし反応なし。沿岸部ではNTT回線も途切れてしまいましたから反応がないのも当然でしたね。


あとはIBCラジオの避難所名簿の読み上げが頼りでした。聞き逃さないようにがんばって聞いていました。
しかし、山田町の名簿がなかなか出てこず、親父と兄の安否はわかりませんでした。


その日(3/12)の夜に電気が復活しました。
さっそくテレビを・・・衝撃的な映像が流れます。信じられませんでした。愕然としてしまいました。
こんなすごい津波じゃ、親父はダメなんじゃないか・・・

翌朝早く起き、ガソリンスタンドに行きました。行列が出来ています。
2時間程並んで、やっと順番になりました。「これから山田町まで行くんです!!」といったら満タンにしてくれました
そして「気をつけて行ってきて!」と声をかけてもらいました。とてもありがたかったです。


家に一旦帰り、水や食料、長靴やタオル類を車に積み込み、山田に向け出発です。
国道106号線に入ってすぐ(天狗の里の交差点)のところで、検問がありました。
通行止めか・・・

警察官の方にどちらへ向かわれますか?と。素直に山田町へ親兄弟を探しに行くので通して欲しい旨話しました。察官の方は丁寧に言葉を選びながらも行ってはダメをとのことでした。

自衛隊が入っているから、そちらに任せて。
必ず行かなくてはいけないときがくるから、それまでガソリンを無駄に使わないようにしたほうがいい

冷静に考えると、その通りです。
しかし、こっちは親兄弟の安否がわからない。もしかしたら一刻を争う状況だったりするかもしれない。
冷静ではいられません。


とはいいつつ、今自分が行ってどうなるか。我が家では避難する先は北浜の親戚宅と決まっていますが、あの大きさの津波で、高齢者の避難です。距離的には役場のほうが近いのでそっちに行ってるかもしれないし。その前に避難できているかどうかもわからない。だとしたらどこをどう探せばいいのか。
指示に従うことにし、泣く泣く引き返しました。


家に戻り、とにかく情報収集です。パソコンに向かって何か手がかりがないか探しました。
ツイッター、mixi、Google PersonFinder、IBCのHP(避難所名簿のリスト)


山田町の避難所名簿も載り始めました。
避難所の名簿に、親戚の名前が載っているのを見つけたりして、徐々に情報が入り始めていく感じでした。
インターネットでは、現地に行ってきた人が避難所に行き、名簿の写真を撮って掲載したり、その写真からテキストに起こしたりという情報が頼りでした。IBCラジオの情報は視聴者からの電話やメール等もありました。


父と兄の安否がわからないまま翌日(3/14)になり・・・・

会社に行き、状況説明と休暇連絡を行い、その足で県警本部へ。
県警本部に行方不明者相談ダイヤルが開設されたとの情報でしたが、何度電話しても話し中でつながらないので直接行ったのでした。

ラジオやインターネットで知り得ない情報が入るかもしれない・・・そんな期待をもって行きましたが、
最悪の状況で発見されたとき身元を確認するための情報を警察に提供してきた。
そんなところでした。

ついでに県庁に寄りました。
自衛隊の通信車が止まっているし、なにか情報が入るかもしれない。淡い期待。
しかし、この名簿を参照してください。渡された紙はIBCのHPに掲載されている避難所名簿リストでした。

結局、情報は何も得られず

やっぱりインターネットとIBCラジオ。これしかない。自宅に帰りパソコンに向かいました。

状況が変わったのは夕方。
携帯電話に
父と兄が北浜の親戚の家にいると、親戚が車で宮古の花輪橋まで出て連絡してくれたものでした。
(宮古の花輪橋まで出ないと携帯がつながらない状況だった)

さっそく山田町への入り方を教えてもらい
(当時、宝来橋と織笠大橋が崩落してしまっているという情報がありました。結局現地にいったら橋は崩落していませんでした。通れないのには変わらなかったので、まるっきり嘘という訳ではなさそうでしたが) 

現地で必要だという物資を積み込んで、翌日迎えに行きました 。
飲料水、お茶ジュース類、カセットコンロ、懐中電灯、新聞

~新聞に関しては読むためだそうで、現地ではラジオ以外の情報が入らないからとのこと~

検問については、県災害対策本部に電話して通行許可をもらいました。
許可証とかそんなものはありませんでした。検問所で口頭で災害対策本部から許可をもらったと話すだけでしたが・・・

結局
安否確認は個人間での情報が一番有効で、それを媒体(インターネット、ラジオ、携帯電話)がつないだ
そんなところだったなぁ。