Head test

東京屋どうでしょう? ~岩手県山田町・東京屋釣具店の息子の日記~

岩手県山田町にあった東京屋釣具店の息子(四代目)です。 震災で実家の釣具店は流されましたが、屋号はこのブログで継承します。
私は、現在盛岡のIT企業勤務。山田町のことを中心。盛岡での出来事、趣味など書いています。

東日本大震災状況

山田町8~八幡町

長崎の次は、八幡町に行きました。


梅の家さんも親戚だそうです。
梅の家さんも営業を再開しているとのことでしたので、
お店の写真を撮り親父に見せようかと思いました。

CIMG7059

役場に登って、役場周辺の様子を撮影してきました。
↓八幡神社の鳥居から。右手に梅の家さんと、山田町交番(仮設)
CIMG7062

↓役場駐車場から↓ 白い大きいプレハブは建設中の仮設店舗じゃなかったかと
CIMG7060

↓同じく駐車場から正面。
CIMG7061


CIMG7063

役場周辺は、店舗がちらちら出来はじめている模様で、変化がみられます。


役場前の写真が掲載されているページ
2011年3月17日の記事
2011年5月17日の記事


        ★   ★   ★
ランキングに参加しています。クリックしてもらえるとうれしいデス。。
↓↓↓
人気ブログランキングへ


山田町7~長崎

長崎に行きました。

電器のササキの看板が見えたからです。
おやじさんが、父の同級生です。
いまは足が悪いそうで、商売から引退しているそうです・・・

せっかく来たので、寄っていこうと思った次第です。
様子を聞いて、親父にも知らせてあげようと思いました。

CIMG7055

息子さんがいらっしゃいました。
ど~も、東京屋でーす。と入っていったら驚いておられました。

お父さんはどうだったの~~?
 (やはりご存じなく気にされていたそうです)
自転車で北浜まで逃げて無事でした。いま盛岡にいるんですよ~
という会話からはじまり

そして震災当日の様子を教えてくれました。
あの日は、足の悪いお父さんがいらっしゃるので、避難は無理
店舗兼住宅の3階にお父さんをおぶって上がったそうです。

津波は、1階店舗の天井付近まで押し寄せてきたとのこと。

↓このスピーカーも波をかぶり
CIMG7056

↓この線が津波の跡だそうです。
BlogPaint

地図では、この辺
nagasaki01
・・・ここにまで天井にとどくほどの波が来たと言うことです!!


津波がひいた後、目の前の道路はガレキだらけ、歩くのは困難な状態だったそうです。


そして今度は火災発生。一晩燃え続けたその火の手は、どんどんご自宅に迫ってきたのだそうです。
さらにプロパンガスボンベの爆発も多数あり、それはもう凄かったと。
朝方には、もう目の前まで迫ってきて、いよいよお父さんを背負ってガレキの中を逃げなければならない。
そう思ったそうです。

しかし、なんとか火災は目前で止まったんだそうです。
津波そして爆発をともなう火災に、もうどうなるのかわからない状況。
もの凄い恐怖だったんだと思います。

nagasaki02
赤丸で囲っているのが、「電器のササキ」さん
青い線のあたりまで、火の手が迫ってきたのだそうです。


それで、やっとわかりました。
長崎道路の右側と左側で、ずいぶん違うなという気はしていたんです。
CIMG7054
長崎から山田駅方面の写真。
この一帯が火災で焼失したのだそうです。
写真に写ってませんが、左側は家・商店が建ち並んでいます。




        ★   ★   ★
ランキングに参加しています。クリックしてもらえるとうれしいデス。。
↓↓↓
人気ブログランキングへ


山田町6~残留物

境田町へ行った後、長崎に行ってきたんですが・・・

うちの敷地内に残っていた物があったのを抜かしていました。

えびす食堂から、戻ってきましたが、ふと何かあるかなぁ~と・・・
cimg7029
 
イカ針
cimg7030
 
てんてんの仕掛け
cimg7031

てんてんの仕掛け
 cimg7032


やっぱり、おもりがついた品物が残ったみたいです。

関連記事
 津波に流されなかった釣り道具








        ★   ★   ★
ランキングに参加しています。クリックしてもらえるとうれしいデス。。
↓↓↓
人気ブログランキングへ


山田町5~境田町

境田町に来ました。
ここにも同級生の家があります。あったはず、あれ?

まったく建物がなくなり、どこかわからなくなりました。

しかし、踏切がありましたのでわかりました。
CIMG7049
↑これが踏切です。信じられませんでした・・・

 一見わからないです。この辺の昔の姿を思い出して、やっと、あぁ~踏切があったなぁ~
という感じです。

いま、赤丸のあたりにいます。↓
sakaida
 
線路があったハズです。↓
CIMG7050

↓車を止めたあたりに同級生の家がありました。屋号は「だんご屋」です。
 東京屋の親戚でもあります。
CIMG7051
 
↓山田中学校へ向かう側に大陥没が・・・なんじゃこりゃ
CIMG7052
 
踏切のところに、街灯が設置されていました。
それにしても、ちっちぇ~
CIMG7053
 その向こうには、海岸。船越半島が見えます。


そういえば、いままで境田町には寄ったことがなかったです。
こちらもたくさんの家があったのに、なにもなさすぎて・・・
ここでも、線路がないのと、ちょこっと線路が残っている踏切とを見て唖然としていました。

根こそぎやられた感じです。


川向町もそうでしたが、人気(ひとけ)がありませんでした。45号線を車が行き交うだけです。
う~ん、寂しい・・・またしても復興の遠さを感じざるを得ません。




        ★   ★   ★
ランキングに参加しています。クリックしてもらえるとうれしいデス。。
↓↓↓
人気ブログランキングへ


山田町4~えびす食堂

うちから防潮堤のところをぐるっと回って、川向町と中央町の境に行きます。

cimg7016

cimg7017
↑この防潮堤を見て、いまにして思えば・・・
  人の目線では海がどうなっているか見ることができません
  地震=津波=逃げろ
  が、基本だとは思いますが、なんか「津波」が連想しずらい状況でもあった気がします。見えないから。

  実際に波が防潮堤を越えたのを見てから全速力で逃げた人の話も聞きました。
  超えてきてから気付いたそうです。


すこし先にすすんで、いさみビル方面です。
cimg7018

漁協の建物
cimg7019

見づらいんですけど、道路に勾配がついていました。なんでだろう?
以前は平坦な道でした。
cimg7020

cimg7021
cimg7022

↓この川がちょうど川向町と中央町の境です。
左が川向町、右が中央町
この左前方に、 「えびす食堂」。同級生の実家がありました。 
cimg7023

地図
BlogPaint


↓鳥がいます。みづらいですが・・・わかるでしょうか?橋の手前です。
鵜みたいなヤツで、いきなり水に潜りました。うっ!どこいった?
cimg7024
いままで見たことない鳥だったような気がする!?
写真を撮ってやろう!と待ちかまえましたが・・・出てきません。どごさいった?


しかし、この川からも地盤沈下の様子がよくわかります。
水面が溢れそうになっています。
以前は、ぜんぜん下の方でした。ここまで水位があがるとは考えられなかったですから。

cimg7025





        ★   ★   ★
ランキングに参加しています。クリックしてもらえるとうれしいデス。。
↓↓↓
人気ブログランキングへ


山田町3~東京屋跡

うちの周辺がどうなったか?

まぁ実際のところ、あんまり変わってはいないだとうと思っていました。
あんまり変わってはいませんでした。

ん?役場?
役場が見えます。前は見えなかった気が・・・
CIMG6993
 
いや、11月の写真を見たら、その時点で見えていますね。ただ建物があったので目立たなかったんですね。
↓2011年11月の写真↓
CIMG5474

 
うちの周りを360度パノラマで撮ってきました。自前ストリートビューです。
魚市場方面を起点に、時計回りに撮影しました。
赤が魚市場方面。次に右の青、また右の青と順番に並べます。
chizu01

CIMG6994

CIMG6995

CIMG6996

CIMG6997

CIMG6998

CIMG6999

CIMG7000

CIMG7001

そいえば、本物のストリートビュー
我が家周辺も掲載されていましたね。(以前見たときは45号線沿いだけだった)
↓ストリートビュー↓
chizu02


話は戻ります
まだ津波の爪痕が残る防潮堤
CIMG7002

CIMG7003

防潮堤から山田駅方面(毎回おきまりの角度)
CIMG7004

あいかわらず基礎だけのこっている東京屋別館跡
CIMG7005
 
この後方に広がる見晴らしのいい平野・・・
みっちりと商店、家々が立ち並んでいたんです。45号線を走る車なんて見えなかった。
これを見て、「復興」って実はな~んにも進んでないんじゃないか?
ふと思ってしまったんです。

関係者の方々は、いろいろご尽力いただいているとは思うのですが。
でも、なにか足踏みしているような、そして寂しいような感じです。


いままでの記事で、この場所の写真が掲載されているページです。
見比べてみてください。

2011年11月上旬
2011年 7月中旬
2011年 5月中旬
2011年 4月中旬
2011年 4月上旬
2011年 3月下旬②
2011年 3月下旬①




        ★   ★   ★
ランキングに参加しています。クリックしてもらえるとうれしいデス。。
↓↓↓
人気ブログランキングへ


山田町2~地盤沈下

山田の魚市場です。

防潮堤をくぐったところ。

海に向かってヒダリをミテ
cimg7006

ミギをミテ
cimg7007
なにか作ろうとしていますね。何でしょうか?

海に向かっていきます
cimg7008

現在残っている市場の建物
cimg7009

 このひび割れしているアスファルトの下は海
ちゃぽん、ちゃぽんと音がします。

このちゃぽんちゃぽんの音が、やけに近い気がしていました。

cimg7010

岸壁と海面が近い・・・・
もの凄く近い。手が届いちゃうんじゃないかな?
前はこんなに近いことはなかったと思うんだけど。

遠くに目をやっても、どうも海面の高さが気になります。
cimg7011
cimg7012
 
市場から戻る途中で・・・また、ちゃぽんの音が
cimg7013
↑ここから聞こえてきます。

cimg7014
↑ん?この水の高さは・・・・

海面の高さです。つまり側溝の水は海の水です。海抜何センチでしょうか。
cimg7015
 
 
これが、あの地盤沈下か・・・

満潮になったら、この周辺に潮があがると聞きましたが、こういうことかと実感してきたところです。





        ★   ★   ★
ランキングに参加しています。クリックしてもらえるとうれしいデス。。
↓↓↓
人気ブログランキングへ


山田町1~山田駅

山田の町の様子を写真に納めてきました。


ネットで見ていると、仮設商店等が出始め復興も進んできているかと思っていましたが、
そうではないことがわかりました。

本当に「まだまだ」だという印象を持ちました。
 
建物の取り壊しが進んで、更地が増えた・・・
町の中心街が更地になった。そんなところでした。
人が暮らす町になるまでには、あとどんだけかかるんだろうか?

今回は、あちこち行ってきました。
川向町東京屋とか、魚市場とか、陸中山田駅、境田町、長崎、御蔵山、びはん周辺

その中で、ショックでかいのが鉄道関係でした。
まずは、陸中山田駅

↓ かつて駅だったことを示すのは、このバス停だけ。 
CIMG7036

↓駅のホームから、宮古方面
CIMG7039

↓駅のホームから、釜石方面
CIMG7040

↓きれいさっぱり線路がな~い
 CIMG7041

ずぅ~っと自家用車で、汽車に乗るなんてことはないのですが
それでも、なんでか、線路がない鉄道がないってのは脱力感満載です。
どうしてだろう?

↓駅舎跡・・・ここに駅舎があったはずです。小さな駅でしたが、それでも「無い」とガラ~ンとします。
CIMG7042
奥に山田町役場が見えています。建物がなくなったので見えるようなりました。
本当に建物がなくなりました。 

↓駅ロータリーから川向町方面。ぎっしり家やお店が並んでいたんですが・・・
CIMG7033
 
↓駅バス停から境田町方面。こちらにもびっしり建物があったのに、ほとんどないです。船越半島が見えます。見えなかった(ハズ)なのですが・・・
CIMG7035
 
↓駅前びはんの駐車場。まだ処理できてないのでしょうか。
CIMG7044
 
う~ん、めちゃめちゃです。あれから約一年たとうとしていますが・・・う~ん。
CIMG7045
 
↓駅前びはんの跡。
CIMG7047
 
う、だめだ。。今日も眠いので、ここまでです。

また後ほど・・・・です。


        ★   ★   ★
ランキングに参加しています。クリックしてもらえるとうれしいデス。。
↓↓↓
人気ブログランキングへ





金庫の中身

宮古警察署で受け取ってきた金庫の中身。
家に帰ってきてから、広げてみました。

まだぬれてます・・・海水に浸かっていたのはわかるんですけど
この1年近く、ずぅ~~と海水に浸かりっぱなしだったのかなぁ~

さてさて・・・何が出てくるか。ドキドキ
cimg7087





cimg7088





ん?

BlogPaint

あ!大学の合格通知書!?

大事に取ってあったんだ~~
うれしくて、ほくそ笑んでしまった。

さて、その他には 

あぁ~~権利書!
BlogPaint

 
すっかり、へにょへにょになっていたけど、大丈夫かな?
 

親父が、真水にさらして乾かしてみると言ってた。
親父の仕事が出来た(笑)

 

関連記事



        ★   ★   ★
ランキングに参加しています。クリックしてもらえるとうれしいデス。。
↓↓↓
人気ブログランキングへ



ふと思い出す~震災後はじめて山田に入る

今日は、水沢の伯母さんやいとこと当時の話を少ししました。

前回以下の記事を書いています。
10月17日投稿、「ふと思い出す~震災当日のこと
10月 23日投稿、「ふと思い出す~震災当日のこと~翌日

思い出して、続きを書きます。

-----
3/11からずっと連絡が取れず、NTTの災害伝言ダイヤル、ラジオ放送、twitter、Google PersonFinder、mixiとありとあらゆる通信手段を使って父と兄の安否を確認していた。
その中、親類や友人の名前がネットで公開された避難者名簿に載っていたりしましたので、どこに居るかどこに行くかいろいろ考えを巡らし探していました。いつもなら北浜の母の実家だ。だけど少し遠い。町役場のほうが近いからそっちか。まっすぐ山手に行くなら南小学校かもしれない。
南小学校の名簿にもない、役場そばの公民館の名簿にもない。
そうこうしているうちの、3/14の夕方、電話が入り北浜町に行ってきた方で、メモを預かってきた。あなたの名前と電話番号が書いてあるメモ。電話してくれと頼まれた。とのこと。
頼んだ人は誰ですか?
わからない。電話をしてくれとメモを渡されただけ。避難所に行ったら、いろいろな人から同じようなメモを渡された。と・・・・

親父か?
メモを渡した人は高齢の男性でしたか?そのメモには私の電話番号以外に他の電話番号は書いてないですか?
はい、高齢の男性です。他の電話番号は書いていません。
う~ん、親父くさい・・・
親父が無事だというメッセージだと信じたいが・・・
その後、どの道を通って山田町に入ったのか、どうやって検問を通れたのか。現地の状況はどうか。必要な物資は何か。あれこれ聞いてお礼をして電話を切った。

生きてるかも、ちょっと希望が見えてきた。

それから30分程してからか、また電話が来た。
今度は母の実家の2軒隣の方から・・・
この電話で、はじめて親父と兄貴の名前が告げられた。無事だよ!と
涙が溢れた・・・この3日間分が一気にこみ上げてきた。

よかった。

それから、どれくらいだろうか、また電話がきた。
小学校のとき剣道をやっていたちょっと年上の親戚から・・・
生きているのがわかったので今度は余裕の応対だったハズが
「おー生きでだが?おめぇ~こっちでは津軽石で津波にのまれて死んでるって話になってるぞ!」
へ??
いきなりの先制ぱんちだ(笑)

父さんが早く盛岡さ連れでげっていってだーぞ。
あと、薬がねぇ~って言ってだっけぇ~
こっちで足りない物は、新聞、ラジオ、懐中電灯、カセットコンロのガス缶、電池、飲料水(お茶ジュースでも可)
最初の第一声以外は必要事項を簡潔に述べパーフェクト、
それに対し迎えに行くからと返事した。

親父の薬は、災害対策本部に確認した。
災害対策本部は、医師からの処方薬なので現地自衛隊から供給できない。本人が医師の診察を受け処方してもらわないと貰えない。本人を病院に連れて行くしかない。との回答
そこで、盛岡の病院に連れて行くからと検問を通してもらうことを了承してもらった。

検問さえ通れれば、行くだけだ。
それから忙しく、物資を揃えた。カセットコンロのガス缶だけ手に入らない。品切れ・・・
どうしよう・・・同じ仙北町に住む剣道仲間に相談したところ、もってる!ということで譲り受けた。
助かるぅ~。
翌日早朝に出発! 

山田に行くにあたり、まともに45号線は通れない。豊間根から山道を抜けて関口に抜けるしかない。
でも、その道を僕は知らない。
花巻在住の剣道仲間が山田町出身で震災後から情報交換していた。
今回、こういう訳で通行許可もらったということから、一緒につるんで行こうとなった。
豊間根から関口へ抜ける道を知っているという。
検問通行許可がある、道を知ってる。ギブアンドテイク。これはお互いに願ったりかなったりだ。

ここ一番で、急に道が開けた。剣道やっててよかったー(笑)

関口から入り、後楽町~山田町役場へ向かった。


なにか焦げ臭い。
焦げ臭くなってきた。
そして後楽町に抜けたとき、絶句した。

散乱・・・・役場へ向かうと散乱+黒こげ
役場の駐車場に入ると、自衛隊の装甲車でいっぱい
空にはヘリコプター
ぼくは戦争に行ったことも巻き込まれたこともないけど
戦争の跡
一瞬にしてそんな感覚をもった。 

泣きそうだった。
これが故郷なのか・・・

 いやいや、親父や兄貴が避難している北浜に早くいかないと
 北浜に行くには龍昌寺からお墓のある山道を抜けていかなくてはいけない。
リュックに水のペットボトルを詰め込んで行った。

母の実家に到着~~
「おーー、きたぁ~が、きたぁ~が」歓迎を受け、父さんは奥さいで寝でら~がらと奥へ通してもらった。
そして、親父と涙の再会。

話通り、親父は俺が死んでいるとおもっていたから
生ぎでだぁ~が!と、こっちも生ぎでだぁ~が・・と涙、涙の対面

とまあ、そこまではよかったのだが、
次の親父のセリフ
「おい、ところで薬は?」

一気に冷めました(笑)


薬は医者さいかないと出して貰えない、だから迎えに来た。盛岡に行く。
その旨つたえ納得したところで

車に残っている物資を運びにいった。

それにしても想像を絶する状況だった。
右を見ても左をみても。360度パノラマで想像を遙かに超えていた。

物資も運び終え、母の実家に避難している親戚から話を聞いた。
怒濤のように話しまくる。
とにかく話がすごい。
その中、非常用リュックを背負ったまま狭い避難路を通れなくなった話や太っている為通れなくなった話や
なぜか笑い話に・・そこで笑いを取りますか!?

そしておばちゃんが言う
あの家みえっぺーす。
あの家はなぁ、あそこにあった家ではねぇ~んだ~よ。
へ?
あ、あの・・・言っている意味がにわかに理解できないんですけど・・・・・

つまりは、中央町のほうから北浜町へ流れ着いた家だそうなのです。

そんなこんなで親父と兄貴を連れ、盛岡へ戻ります。


盛岡に戻る途中、豊間根により豆腐屋のおじちゃん、おばちゃんに会い
宮古のおばちゃん家にもよりよりしていきました。

あのとき共通していたのが、薬がない。
みな着の身着のままで逃げてきているから、処方薬がなくて困っていたんですね。


盛岡に戻ってきてから
まず風呂入りたい。
 下着がない

老眼鏡がない

入れ歯がない

ないないづくしの生活が始まりました。





スポンサードリンク
【楽天市場】お歳暮特集
月別アーカイブ
QRコード
QRコード
記事を検索!
自己紹介

東京屋さん

アクセスカウンター
  • 今日:
  • 昨日:
  • 累計:

ランキングに参加しています
クリックよろしくお願いします! 人気ブログランキングへ
ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村 格闘技ブログ 剣道へ

株

メッセージ

名前
メール
本文
  • ライブドアブログ